インプットとアウトプットを定義してみる

最近、自分の内側から、自分の外側への表現(アウトプット)が

激しく不足していると実感した。逆に、自分の外側からの、

自分の内側へ入り込んでくる、インプットは止むに止まない。

意識的な情報の取り込みも、無意識に情報を視覚した瞬間さえも、

インプットだと思う。情報を知覚してしまえば、インプットしてしまう。

 

もちろん、アウトプットもまた、無意識的に行っている。

物事を知覚するのがインプットなら、それに対するあらゆる反応が

アウトプットだと思う。何かを受けて、言葉が出たり、態度が出たり、

それも一種のアウトプットのはずだ。反応、いわばリアクション。

 

言葉も態度も、反応として発生する。

何かをインプットし、それを心身で情報処理し、心身で反応する。

情報はボールとなって、人間という壁に当たって、その人間の情報となって

跳ね返っていく。情報は変形したり、時をおいて跳ね返ったり、

もしかしたら、人間によっては情報がそもそも当たらなかったり、

跳ね返らずに取り込まれたままだったりするかもしれない。

 

 

そんなインプットとアウトプットの関係をとらえたところで、

いま、自分の実際として、何が問題なのか? と考えてみた。

おそらく、インプットした情報と、それを処理した後の自分なりの情報が

うまく処理できていないのだと思う。

 

何かを見知りして、その何かを自分なりに考える。

外からの情報は、自分の中で、自分なりの意見や見地に変換されている。

あぁ、それはそういうものなのか、と見知りした情報を、

そう、それはこういうことなんだよね、と自分なりに処理している。

 

しかし、ここで問題となるのが、「そういうこと」と「こういうこと」が

具体的な言語として表現できていない、という点だ。

思考はしている。しかし、表現はしていない。この差は大きい。

 

この差による問題を、分かりやすく表現してみる。

自分の家から最寄り駅までの道のりを、その道のりを知らない人にも、

分かりやすく説明して下さい、という問題に似ている。

または、インターネットについて、あなたのおばあちゃんにも

理解できるように説明して下さい、という問題にも似ている。

 

何かを見知りし、理解することは、インプットである。

そして、そのインプットした自分の中の物事を

説明(表現)することは、アウトプットである。

 

本来なら、だれでも出来るはずのことだ。

これは、小学校では作文として行い、中学校と高校では小論文として行い、

大学ではレポートと論文に分けて行っているはずだからだ。

 

しかし、なぜか、そう簡単にアウトプットできない場合がある。

 

なぜか?

それは心技体に問題があると思う。

 

記事が長くなったので、とりあえず今回はここまで。

相変わらず、記事を書くにあたって、書きたい内容を

定義して終わるクセがなおらないです。うーん。

 

あと、書いてから思ったけど、インプットにも

あれこれ問題があるようにも思う。しょうもない情報ばかり

インプットしても、やはり、アウトプットもしょうもなくなる気がする。

 

けど、情報の量や質を均一化しても、それを受け取る人によっては

アウトプットの量や質はまったく異なる場合もあると思うので、

(たとえば作文の課題とか、振られた仕事の仕上げ方とか)

ひとつのインプットに対して、それ以前のインプットがモノを言う場合も

あるのかな、と思った。インプットとアウトプットの、どちらかに

優劣をつけるのは無意味、なのかも。いずれも独立していながらも

 

影や背の部分で両立し協同しているなぁ、と思う。面白い。