自分の判断の軸、すなわち価値観

今朝、はてなブログにああだこうだと書いてみました。

自分が有意義に書けたら、それで良いのかも、と思って

この記事もつらつらと書きました。

 

もともとは、何かに思い悩んだ時に、

どうやってそういう時を打破するか?

というのを考えて、文章にして、記事にしたかったんです。

 

そもそも、思い悩むって何? なんで思い悩むの?

何を見て捉えて、悩んじゃうわけ? どうして見て捉えるの?

みたいに、あれこれと疑問符をつけすぎてしまいました。

 

ひとつの課題が出来たなら、とっととそのひとつの課題に

取り組んで、とりあえず、その課題を終わらせれば良いはず。

なのに、どうしてか、自分から分かれ道や袋小路を作り出して、

自分から思い悩んでしまっている。そんなふうに思います。

 

いつか読んだ本だかネットの記事では、何かに思い悩むのは、

その何かに対する判断の軸が無いから、らしいです。

判断の軸と言われて、あっさりと自分の判断の軸を

言い出せるか? 言葉にできるか? と考えてみましたが

どうにも言い出せず、言葉にできず、確立できてないな、と思いました。

 

もっとも、そういう軸やテーマを、あえて作らない、というのも

自分の生き方なのかなぁ、とも思いました。

そういうの、すぐに飽きちゃうんですよね。

それから、ひとつの軸があっても、別の軸が出てくれば、

別の軸で物事をはかるのは、それもまた自然じゃないかとも思います。

 

つまり、判断の軸とは、自分の中の価値観と、

価値観によるものさしではないか、と思いました。

自分においてのそれは、最初にも出てきた、

有意義か有意義でないか、だと思います。

 

もしくは、効果が得られるか得られないか。

効果が得られるなら、できれば、効率が良いほうが望ましい。

同じ効果でも、そのために必要となる時間やお金や体力が、

少ないほうが望ましい。

 

逆に、有意義でないものは、まったく望ましくない。

効果が得られず、効率も悪く、何にもならないわりには

時間もお金も体力もかかってしまう。

そんなのは許せない、絶対に嫌だ、となるわけです。

 

 

もっとも、その時は有意義じゃないと判断した物事が、

後になってみれば、それなりに有意義だったかも、と思うこともあります。

それは、その時の自分の価値観が更新されていたり、無理にでも

有意義だったと思わないと、自分が救われないからかもしれません。

 

 

また脱線してきた。

けれど、現状の自分の価値観が、ちょっとは整理できたと思います。

有意義か、有意義でないか。それは意味があるのか、意味がないのか。

効果があるのか、効果がないのか。効率が良いのか、効率が悪いのか。

 

これが分かっただけでも、現状の自己分析が、ちょっとは進みました。