一歩と勇気

今日は初詣に行ってきました。
愛宕神社http://www.atago-jinja.com
転職が成功したので、改めて仕事運や出世運を
分けていただけたら、と思って行きました。


しかし、仕事や出世がどうこうより、相変わらず
自分のアイデンティティに意識がいってしまいます。
この半年で所属する職場は3回変わり、会社も変わりました。

それぞれの職場に問題があったわけではありません。
異動自体が嫌だったわけでもありません。
来週には別の職場に異動せよ、という指示しかなく、
なぜ異動するのか、いつ異動するのかが分かりませんでした。
そこに自分の意図は反映されず、いつまたそんな異動を
受けるのも分からないので、会社を辞めました。

わけも分からず、急に環境が変わり続けることで、
自分がなんだかすり減っていくような感覚がしました。

「新たな環境に身を置き、新たな人間関係を築き、新たに働く」

というよりも、
「知らない環境へ急に飛ばされ、知らない同士で集まり、
 それでもどうにか人間関係を築き、成立させ続け、
 自分や他人の働き方を試行錯誤しなければならない。
 そして、その機会はいつ訪れるか分からない」
という表現が正しいと思います。


やや被害意識の強い表現でもある、とは思いますが
自分がすり減る感覚を感じるには、十分だと思います。
そして、自分がすり減る感覚、というのを突き詰めると、
自分の存在がすり減り、薄まっていく感覚だと思います。

自分の存在が感じられなくなる。
何者なのかが分からなくなる、とはちょっと違います。
何者なのかが分かっても、薄くて弱い存在に感じるように
なっていたと思います。そう感じるような働き方を
し続けるのが嫌で、怖くて、辞めたのだと、いまでは思います。


自分という存在が薄まったまま退職したので、
転職活動も、早くに決まったものの、辛かったです。

自分という存在が薄まり、弱まっている中で、
「自分はこういう人間です! こういう仕事をしました!
 こういう能力があります! こういう経験があります!
 だから御社で働きたいです! こういう理由があります!」
というアピールと誇張を交えた自己紹介をするのは
なんとも裏腹で、罪悪感さえ感じてしまいました。

しかし、そんな人間を拾ってくれる会社は無いだろう、
と思うようにしました。どうにか勇気を出したわけです。
胃の具合も悪くなりながら、自己分析を重ねたり、
転職サイトのキャリアコンサルタントを頼ったりし、
やはり、自分はこれまでの経験を活かした仕事がしたい、
と思い、どうにか正社員の販売員として、雇ってもらえました。


どうにか社会的なアイデンティティを獲得できました。
本当にありがたいことだと思っています。
転職活動といえど、実際には1ヶ月くらいしかやっていません。
しかも、入りたいと思った会社に入り、勤務したい業種や部門
配属させてもらえました。

それでも、この年末年始は、どうしてか分かりませんが
気が気じゃありませんでした。落ち着きませんでした。
自分でも分かりませんが、自分で自分が感じられない。
朝起きても、昼を迎えても、夕方が来ても、夜になっても、
どうしても自分を感じられない。疑い出せばキリがないだけで、
考えなければ良いだけなのかもしれませんが。


いつになったら、自分を取り戻せるのか。
いつか感じていた、自分自身や、そんな生活は
いつかまた取り戻せるのか、取り戻せないのか。

まだ、分からない現状です。
しかし、新しい職場のボスはすごく良い人だと思いました。

「ここは利益率も高く、会社の中でコケられません」
「売れ筋が変わりませんが、常連も新規も両立しています」
「現状の売り方は恥ずかしい。見ないで、って感じです」
「この1ヶ月で仕事にもなれますよ。うん、できる」

こんなこと言ってくれた上司は、なかなかいません。
優しそうな笑顔の中にも、真剣な眼差しがありました。
また、職場の人たちもそんな雰囲気だったと思います。
とかいって違ったらショックですが、自分自身だって
そうやって見られている、ということを忘れずに
きちんと働いていきたいと思います。


やはり、働くことが、自分が自分だと
感じられることにつながるんだと思います。
初詣をしても、まだもやもやしていましたが
ここまで考えて、書いて、なんとなく分かりました。

新たな環境、分からない環境。
新たな自分、分からない自分。
仕事をすれば、分かってくるはず。

少しずつでも良いから、進んでいきたい。
むしろ、少しずつでも、進んでいけることが
ありがたくも良しとしたい。

愛宕神社の長い階段を登り、降りることで
そんな風に思えました。長い階段を進むのも
一歩でしかない、と強く感じました。
一歩を踏みしめる勇気を、今年も大事に保ちたいです。