ちまちま

二度目の転職活動を始めた!

などと言いましたが、ほとんど頓挫しております。

原因はただのめんどくさがりや。いつものことですが

このめんどくさがりやと、とりあえずやってみようという

ちょっとした着手や一歩が出ないのが、何にもならない原因なのかも

と思うのですが…で、こうして自分を責めておしまいなのもいつものこと。

 

まぁ、もういいや、と開き直って働いてます。

給料日だけが楽しみだったり、やりがいでもいいじゃないか。

とすると、結構気持ちが楽。いちいち理想や目標を高く掲げなくても

ちまちまがんばるのは、仕事や行動としては一緒なわけだし。

 

ちまちまがんばる。か。

悪くないっす。

再繁忙期やだなー

2度目の転職活動

タイトル通りです。

また転職活動をはじめました。

 

 

今回の前回と違うところは…いまの職場や会社に

まだちょっとは未練があるところです。しかし、その未練以上に

モチベーションが高まらず、不満が高まってしまっていることです。

 

マネージャーにも正直に打ち明けた所、2年半もいれば

マンネリするのは誰だって当然なので、3ヶ月後の下期には異動するよう

上層部に掛け合ってみるとの返事をいただきました。

しかし、かといって、日々の業務や働き方が改善されはせずに

今日も仏頂面で働いてしまったのでした。あーあ。

 

ということで、久々にリクナビMEXTやマイナビ転職等の

アカウントを復活、正直適当に更新してみたところ

前回よりもスカウトメールが多い! でもよくよく見てみると

求人会社からのスカウトばかり。何故?

 

 

そんなこんなで、転職活動にさえモチベーションもない現状。

ただのダメ人間なのかも…転職活動を取り止めて、現状の会社と職場で

我慢して、しのぎながらもがんばり続ける、というのも手だよな

と思うのでした。急かされてばかりだから、のんびりやりたいだけなのかも。

 

一歩と勇気

今日は初詣に行ってきました。
愛宕神社http://www.atago-jinja.com
転職が成功したので、改めて仕事運や出世運を
分けていただけたら、と思って行きました。


しかし、仕事や出世がどうこうより、相変わらず
自分のアイデンティティに意識がいってしまいます。
この半年で所属する職場は3回変わり、会社も変わりました。

それぞれの職場に問題があったわけではありません。
異動自体が嫌だったわけでもありません。
来週には別の職場に異動せよ、という指示しかなく、
なぜ異動するのか、いつ異動するのかが分かりませんでした。
そこに自分の意図は反映されず、いつまたそんな異動を
受けるのも分からないので、会社を辞めました。

わけも分からず、急に環境が変わり続けることで、
自分がなんだかすり減っていくような感覚がしました。

「新たな環境に身を置き、新たな人間関係を築き、新たに働く」

というよりも、
「知らない環境へ急に飛ばされ、知らない同士で集まり、
 それでもどうにか人間関係を築き、成立させ続け、
 自分や他人の働き方を試行錯誤しなければならない。
 そして、その機会はいつ訪れるか分からない」
という表現が正しいと思います。


やや被害意識の強い表現でもある、とは思いますが
自分がすり減る感覚を感じるには、十分だと思います。
そして、自分がすり減る感覚、というのを突き詰めると、
自分の存在がすり減り、薄まっていく感覚だと思います。

自分の存在が感じられなくなる。
何者なのかが分からなくなる、とはちょっと違います。
何者なのかが分かっても、薄くて弱い存在に感じるように
なっていたと思います。そう感じるような働き方を
し続けるのが嫌で、怖くて、辞めたのだと、いまでは思います。


自分という存在が薄まったまま退職したので、
転職活動も、早くに決まったものの、辛かったです。

自分という存在が薄まり、弱まっている中で、
「自分はこういう人間です! こういう仕事をしました!
 こういう能力があります! こういう経験があります!
 だから御社で働きたいです! こういう理由があります!」
というアピールと誇張を交えた自己紹介をするのは
なんとも裏腹で、罪悪感さえ感じてしまいました。

しかし、そんな人間を拾ってくれる会社は無いだろう、
と思うようにしました。どうにか勇気を出したわけです。
胃の具合も悪くなりながら、自己分析を重ねたり、
転職サイトのキャリアコンサルタントを頼ったりし、
やはり、自分はこれまでの経験を活かした仕事がしたい、
と思い、どうにか正社員の販売員として、雇ってもらえました。


どうにか社会的なアイデンティティを獲得できました。
本当にありがたいことだと思っています。
転職活動といえど、実際には1ヶ月くらいしかやっていません。
しかも、入りたいと思った会社に入り、勤務したい業種や部門
配属させてもらえました。

それでも、この年末年始は、どうしてか分かりませんが
気が気じゃありませんでした。落ち着きませんでした。
自分でも分かりませんが、自分で自分が感じられない。
朝起きても、昼を迎えても、夕方が来ても、夜になっても、
どうしても自分を感じられない。疑い出せばキリがないだけで、
考えなければ良いだけなのかもしれませんが。


いつになったら、自分を取り戻せるのか。
いつか感じていた、自分自身や、そんな生活は
いつかまた取り戻せるのか、取り戻せないのか。

まだ、分からない現状です。
しかし、新しい職場のボスはすごく良い人だと思いました。

「ここは利益率も高く、会社の中でコケられません」
「売れ筋が変わりませんが、常連も新規も両立しています」
「現状の売り方は恥ずかしい。見ないで、って感じです」
「この1ヶ月で仕事にもなれますよ。うん、できる」

こんなこと言ってくれた上司は、なかなかいません。
優しそうな笑顔の中にも、真剣な眼差しがありました。
また、職場の人たちもそんな雰囲気だったと思います。
とかいって違ったらショックですが、自分自身だって
そうやって見られている、ということを忘れずに
きちんと働いていきたいと思います。


やはり、働くことが、自分が自分だと
感じられることにつながるんだと思います。
初詣をしても、まだもやもやしていましたが
ここまで考えて、書いて、なんとなく分かりました。

新たな環境、分からない環境。
新たな自分、分からない自分。
仕事をすれば、分かってくるはず。

少しずつでも良いから、進んでいきたい。
むしろ、少しずつでも、進んでいけることが
ありがたくも良しとしたい。

愛宕神社の長い階段を登り、降りることで
そんな風に思えました。長い階段を進むのも
一歩でしかない、と強く感じました。
一歩を踏みしめる勇気を、今年も大事に保ちたいです。

明らめろ

未来に希望 過去に可能性 現状に行動
結局はお題目になっちゃったかなぁ、と思いますが
自分なりの人生のコンセプトとしては、悪くないかな。


2014年は、欲しい物事がたくさんありました。
仕事、先輩、後輩、環境、退職、転職。
いずれも自分の手の届く範囲で、入手することができました。

理想的な範囲までは届かずとも、現実的なところで
欲しいものが手に入ると、自分の努力が報われたと感じ、
すごく嬉しかったのを覚えています。しかし、自分の
伸ばした手に、良し悪し含めた成果が出に入っただけでも
ありがたいと感謝すべきだと思います。

自分の伸ばす手に、誰かの手が重なったり、
伸ばすのを躊躇する手を、引っ張ってくれたりしました。
これは特に嬉しくてありがたくて、感謝しています。
物事の経験よりも、誰かとの協力や協働のほうが
ずっと得難く、ありがたいと思っています。


やればやるほど、物事が見えてくる。
見れば見るほど、物事が分かってくる。
物事が分かれば分かるほど、それと関わる自分も見えてくる。
自分が見えてくれば見えてくるほど、自分も分かってくる。

肝心なのは、物事と関係する自分に、
限界が見えたり、分かったりしたときだと思います。
今の自分では限界だ。壁を感じる。ぶち当たっている。

問題を発見して定義できても、それは解決に向けての
スタートラインが見えただけ。立ってすらいないと思います。
スタートラインに立つことができた時は、問題ときちんと
向き合えた時だと思います。目を背けては立てていません。

もっとも、何でもかんでも問題だとして、解決を図るのが
正しいとは限らないのも、厄介です。
問題と自分との関係を、きちんと見て取る必要がありますね。


ともあれ、物事と自分の間に、いつも壁や限界を
感じ続けて、それをどうにかしようと、ひたすらあがいた。
そんな1年だったと思います。決して理想どおりにはいかず、
理想を夢見ることに、疑問を抱いたこともあります。

理想はあくまで、現実をどうにかするエネルギーとして
思い描いていれば良いのではないか? 目指しながらも、
少しずつ達成が近づくたびに、より遠くに設定したほうが
現実や問題を、もっとぶち壊そうとするのではないか?
理想は常に高く先に置いてある、ということ自体が
大事なのではないかと思います。まだ結論じゃなくてね。


今より先の未来には、希望や理想を置いておく。
そのせいで、現実や現状には壁や問題が発生する。
しかし、現状は過去からの地続きにあると思えば、
過去から解決や突破のヒントや経験があるかもしれない。
無意識にも、過去の経験や蓄積を思い出し、
知識や技術に変換し、現実を突破している時が多い。

そう思えば、過去を振り返ることに意義がある。
未来を目指すべく、現実を突破すべく、過去を振り返る。
そんな過去は、きちんと記録しておくと、振り返りやすい。
だから日々の記録は重要になる。もっといえば、
記録すること自体も、現状を把握し、未来を設定し、
過去を意識することにつながっている。

ただし、過去は可能性のかけらが散りばめられているだけで
知識や技術そのものではない、という場合が多いです。
だから、過去に囚われてしまう。むしろ、自分から過去に
囚われようとしてしまう。それでは、未来も現状も
へったくれもなくなってしまいます。

あくまでも、過去には可能性を求める。
もし、なかったら? 過去は振り返るべきではなく、
あくまでも現状を見つめるしかないのだと思います。
可能性にすがるだけなら、現状の可能性を活かすべく
現状をあがいたほうが良いかもしれません。
どうせ行動をするのは、現状という現実ですから。


話が長くなってきました。
未来に希望 過去に可能性 現状に行動
これらを昨日よりは、具体的に書けたかと思います。

そんなコンセプトを得られた2014年は、本当に
良い年だと思います。ひたすらあがいた甲斐がありました。
欲しい自分が欲しくて、欲しい関係が欲しくて、
欲しい居場所が欲しくて、会社や仕事を通じて、あがきました。

そして、欲しくない自分と欲しくない居場所を
手放したくはない仕事を手放すことで、手放しました。
きつかったです。しんどかったです。
しかし、そこでもどうにかあがいて、転職できました。


諦められることは諦めました。
諦めたほうが良いことも、諦めました。

ただ、諦められないことや、諦めきれないこと、
諦めたくないことだけは、諦めませんでした。

そんな1年でした。
1年前からそうやってきた自分を、誉めてあげたいです。

未来に希望 過去に可能性 現状に行動

配属先から電話がありました。
来年は1月7日から就職することになりました。
就職させてもらった、というぐらいに感じてます。


内定をもらってから、転職先から具体的な話がこない、
というのも心にきてました。この年末は11月くらいから
ずっとノイローゼ気味だったように思います。
社会と仕事に依存していた自分が、その依存先を一気に
断ち切った反動は、非常に大きかったのだと思います。

「仕事を辞めた、転職をした、ということが
 こんなにも自分自身のアイデンティティに響くとは
 本当に思ってませんでした」
このような趣旨の言葉は、聞き飽きたり見飽きたりするくらい
陳腐にさえ感じるとも思うのですが、身を持って感じてみると
これは口癖にさえなると思います。


そんなアイデンティティに関しては、さておき。
今年、2014年を、どう振り返ろうかと思っています。
年間を通して考えるのは、あまりにも対象が大きくて多いので
いまいち方法も見出だせずにいます。ならば、2014年を
月単位で分けて振り返るのも手なのかな、とも思います。

しかし、そこまでして振り返る意味は、あるのかな?
なんて思ってしまいます。振り返る事自体に意味はあるのかな?
でも、今年は日記を毎日書き続けたので、振り返るには
この日記を読み返せば良いわけです。日単位のデータだから
月単位にうまくまとめ直さないといけないわけですが。

今年は日記を2つ書き続けました。
1冊はA5サイズなので、具体的なことを書きました。
書きたいだけ書けました。もう1冊は手帳サイズなので、
概念的で具体的なことを書きました。

この分冊はなかなか効果的だったと思います。
書きたいだけ書ける、というのがなかなか嬉しいのと、
頭と心を文章に変換して、頭と心をすっきりさせてから
明日を迎えることができたからです。


とはいえ、1日ずつページをめくる気にもなれず。
過去を振り返るのが下手くそだと改めて思います。
もっとも、過去を記録することさえなかったわけですから
振り替えようもなかったわけでもありますし。

ということで、来年の2015年をどうするか?
という、今後を決めてから、過去を振り返る、というほうが
なんとなく今後のためになる、ような気がします。
純粋に過去を振り返るというのは意外と難しい。

過去は過去でしかないと思うんです。
現状や今後をどうするかを決めるために、過去を振り返り、
過去の出来事に意味を見出すのではないか、とも思います。


できれば、行き詰まった現状や今後を打破するための、
可能性のある何かを見出したい。
過去を振り返るときは、そんな気持ちで振り返りたい。
過去に慰めや励ましを求めるのは、本当に疲れた時の
一時だけにしておきたい。

現状と今後のために、過去から、可能性を求める。
そんな振り返り方をしたい。
でも、現状は実質無職で、次の仕事も決まっていて、
可能性を求める必要がないくらい、満たされている。


ここまで考えて、あぁ、だから振り返ろうとしても
なんでかそんな気にならなかったんだ、と気付きました。
現状と今後がある程度は満たされていて、行き詰ってない。
だから、可能性を探るべく、過去を振り返る必要がない。

なんて満たされた年末なんだろう、と思いました。
ということで、このブログや手帳や日記に記録することの
意義を改めました。

いつも未来に希望を求める。
そのために過去に可能性を求める。
そして現状に行動を求める。

そんな感じ。具体的には、大晦日か元旦かに書きます。

得て失うクリスマス

今週のお題「2014年のお別れ」〈2014年をふりかえる 3〉

 

内定をもらいました。
もう2週間は前の話で、入社する旨の電話もしました。
いまは配属先からの電話を待っている状態です。

今年のクリスマスプレゼントは、この内定や
次の仕事が決まった、ということだと思います。
ほぼ一ヶ月前に正式に退職をして、転職活動を始めて、
仕事が無いということの怖ろしさを嫌というほど味わいました。
ほぼ二ヶ月の転職活動でしたが、なんともしんどかったです。


内定をもらって以降は、配属先からの連絡を待っているだけで
なんとも生殺しな日々を送っています。
まあ、取り消されるってことは多分無いと思いますし、
また小売業に務めるので、いまは配属先も忙殺されているのだと思います。

社会人になってから、こんなに何もしない年末年始は
初めてかもしれません。また大学時代に戻ったような感じ。
仕事を通じて、社会人として成立して、いち人間としてでさえ
成立していたんだな、と改めて思います。
仕事をとったら、本当になんもない人間だと痛感してます。


今年の誕生日にも思ったことですが、いまの自分が
すごいというよりも、そんな自分のためにがんばってきた
今までの自分がえらい、積み重ねた自分がえらい、と思います。
今年は日記を毎日つけているので、その積み重ねを読み返すたびに
その時のあがきを振り返るたびに、えもいわれぬ感覚がします。

その時々に求められる成果と、成果のための行動をする。
刹那的のようで、でも、その先のいつかやどこかでもなく、
その時その場所を必死に生きている。
必ず死ぬと書いて必死。命がかかっているかのように、
何かをするのが、必死。そんな自分がそこかしこにいました。
まあ、夏以降は、月にいちどくらいに減っていきましたが。


2014年にお別れをするのは、前の会社を始めとして、
前の会社における、前の会社を通じて成立していた、
自分という人間やそのアイデンティティなのかな、と思います。
これを失ったのはすごく辛かったです。
これからもこの痛みや喪失感は、絶対に忘れられません。
アイデンティティの代わりに得たのは、ただの痛みでした。

新たなアイデンティティを得るのは、来年の自分次第なので
いまは抜け殻です。また必死にがんばるしかありません。
今までの自分とさよなら、という表現も、あんまり
しっくりはきていないのですが、5年務めた会社をやめてみると
なかなか心にくるものがありました。


お別れやさよならというよりは、
切り離されたような、そんな今年の最後の出来事でした。
転職ができた、という次の自分とつながる土台もあるので
複雑なのですが、良い1年だったと思います。

落ち着いて

完全に退職してから5日。
最後の勤務日から22日。

さっそく無職ならではの孤独感に苛まれています。
一昨日あたりから軽くパニックを起こし、心身が落ち着かない。
どうしよう、どうしよう、と心配して興奮するわりには
転職活動を具体的に進めたり、その計画を練ったりすることに
やる気が出なかった。病み始めていた。

昨日に至っては、前の職場の先輩に、
やっぱり契約社員で雇って欲しい、なんてメールを送ってしまう始末。
さらに、今日は直接電話をしてみて、でも厳しいみたいよ、と
言われてしまう始末。そりゃそんなやつ雇うまいに。
そして、挙句には恩師に不安爆発助けてメールを送る始末。
近所のカウンセリングルームに電話をかけてみたり、でも
話し中で出なかったりして。マジかよ、と諦めた。


今朝の自分は完全に正気を失っていた。
そんな自分に、うってつけのWeb連載があった。

おとなの小論文教室 Lesson708 自分で社会に居場所つくる
http://www.1101.com/essay/2014-11-05.html
http://www.1101.com/essay/2014-11-12.html
http://www.1101.com/essay/2014-11-19.html

この連載は毎週楽しみにしている。
まるで自分のことだ! と思わせる内容の記事が多い。
特に今月の連載は、本当に身につまされる。

社会的な居場所を失ったら、また築けばいい。
そのために、まずは落ち着こう。居場所がなくたって大丈夫。
居場所が失うのは、当たり前。死んだわけじゃない。
落ち着いて。落ち着いていこう。

再び社会に入っていくんだ。
そのために、いまは何かしらの止まり木に止まっていよう。
自分の居場所を、ささやかでも、取るに足らないと感じても、
自分が生きていると、生きるあたたかみを感じられる場所や
何かを見つけよう。これにもすごく納得した。
朝起きて見るマッサン、昼下がりのドラマの再放送なんかは、
まさにそれにあたっている。これを見るために生きる、
なんてのも、いまとなっては切実にさえ感じるし、悪くない。

いつかまた、社会に入って、その分業の中で、
社会にいるための苦労を持てたら、と思う。
そういうことで、今日はとにかく落ち着くことに専念した。


そして、履歴書や職務経歴書の書き直しに取り組んだ。
トラウマのように感じる過去や、仕事をもう一度やる、ということに
恐怖さえ感じるが、それもきっと当たり前のことだ。
みんなそうだし、みんなの中で、自分もそうしてきた。
乗り越えてきたぞ、自分! というのが、履歴書や職務経歴書から
自分の作った文章から、感じられるようになった。


不安に苛まれるのは、かえって、何もしていない時かもしれない。
いっそ頭を使って、手足を動かすほうが、気持ちも動く。
今日は働きたい(正直に言って働いてみたい)会社を3つ見つけた。
そして、最終手段は前の職場の契約社員に、たぶんなれる。
最終手段は半年くらい待って、ほとぼりがさめないときつそうだ。

履歴書と職務経歴書をまとめて、自分なりの考えや
働き方を編集して、口頭でも言えるようになる、のが
いまのところの目標にした。そして、それと合いそうな会社や
仕事があれば、おそれずに応募してみる、のも目標。

自分で社会の居場所を失った。
でも、また、社会の居場所に入りたい。作りたい。
それを、ひとつひとつやっていきたい。
そんな切実な今日ですが、悲壮さはなるべくおさえて、
落ち着いてやっていきたいです。
まわりにまた変なメール送っちゃうからね…。