ざれごと

アウトプットが気持ち良いー!

インプットして、自分の中で熟成させて、

どうにか考えにして、概念にして、

言葉に変換して、文字にして、文章にして。

 

この一連の流れを、子供の頃にもっとやっておけばよかった。

大嫌いな算数と理科の時間でも、通わされた塾の時間でも、

与えられた物事を拒否し続ける時があった。

 

そして、ゲームとインターネットに逃げた。

そこに主体的な自由はあったけど、主体的な自分はなかった。

そこで育まれたのは、主体的な自由を食いつぶして

肥大化した、悪意の塊になった自分だった。

 

それを高校と大学で、どうにか毒抜きできた。

毒抜きしてくれたのは、周囲の生きた人たちだった。

先生、クラスメイト、恩師、親友。

そういう人たちにひどいことをして、それでも尻ぬぐいしてもらって、

鏡として跳ね返してくれて、一人の人間として付き合ってくれて、

生きたコミュニケーションの中で、はじめて、

自分というものを見つめ直せた。人のおかげだった。

 

しかし、悪意の塊や荒ぶる魂は、自分の中に必ず存在する。

それらが時々は、モチベーションになるからだ。

そして、それを少しでも制御したり管理したりできて、

そんな方法をわずかずつでも、見出して、つかめてきた。

 

考える、ということにしがみついた大学時代と、

働く、ということにかじりついた、ついこないだまで。

やっと、自分というものが、地に足をつけられたように思う。

 

人間になるには、ほかの人間が必要だった。

そして、そういう人間同士や社会の中でこそ、

自分という人間が、生きている。生かし合っている。

生きていることの手応えを感じることこそ、必要だった。

 

 

こんなことを、もっと子供の頃に、すこしでも

感じられていたらなーと思う。

 

生きる手応え。良い言葉ですね。