読書を源泉に

まずいんです。

来週の月曜日から夏休みなのに、その日に台風が直撃するんです…!

 

それはさておき。

前回の日記は、というかほぼすべての日記は、抽象的な話だと

自分でも振り返って見てみて思います。

しかし、話すように書く、という哲学に基づいた日記ほど

あとから読んで面白い日記は無いな、とも思ってます。

今の自分が書く言葉と文章は、後の自分のためのものだと

やっと実践出来てきたように思います。

 

ただし、話すように書く、という書き方は、

その書き手の主観性が、強く出る書き方でもあると思います。

そのため、誰にでも読める言葉や文章かどうか、

誰にでも伝わる内容かどうかは、二の次となります。

話すことと、書くことは、どちらもそれぞれに有為であり、

どちらが優位かは、どちらかの有為性をもとに判断するべきでしょう。

なんていう言葉遊びが出来るのは、書き言葉の有為性だと思います。

 

 

そういう分類の話もさておき。

今回の話は、行間を読む、ということについて書きたくなりました。

あれこれと本を読むようになり、その本や読書の経験から

自分なりに学んだことを、振り返るようにもなりました。

しかし、その学んだことを、自分なりの具体的な言語にすることが

出来てないな、と思うようにもなりました。

 

これが思考と、その言語化なんだな、と痛感しています。

思考と言語化を行うべく、読書ノートを作ろうかな、と思いますが、

思ってるだけです。一応、Webサービスでブクログをやってます。

自分の本棚:http://booklog.jp/users/ra1dens

これだと、読了後に書いているだけで、読書中には書いてはいません。

現在進行中のインプットと、それを受けてのアウトプットが

できていないわけです。

 

これでは、熱い内の鉄を打てていない気がします。

普通の勉強でいうところの、その日の授業の復習を欠かしていて

いつかの予習をも欠かしている、といった感じです。

それなら、とっとと読書ノートを書けや、という話なのですが

しかし、読書ノートには、いったい何を書くべきなのでしょうか?

 

 

そもそも、読書をする際にも、読書術というものがあります。

速読とか三色ボールペン法とか、いろいろありますが

いずれの方法も、読書から得られる経験のうち

量を増やしたり、効率を良くしたり、質や効果を上げるものだと

思います。ここで不思議なのが、読書というインプットに対して

自分なりの読書法というアウトプットを加えている、という点です。

 

つまり、良い読書には、必ず主体性が必要になります。

つらつらと読んでいるだけのように見せかけて、実際は

脳をフル回転させています。そのフル回転をさらに助けるべく、

読書法を取り入れるわけです。しかし、重要なのは

文章を読みつつも、その行間を埋めることだと思います。

行間は本のあらゆる行間を指します。すべての合間に、

自分なりの行間を埋める行為をしているはずです。

 

ここまで書いてきて、やっぱり抽象的かな、と思う。

けれど、それでも自分の中では、まだ具体的だと思い込む。

 

この、行間を埋める行為こそが、そこまでの読書から得た何かを

読んだ自分を通して、自分だけの思いに変換させる行為ではないかと思います。

しかし、言語化ではありません。思考なだけです。

ふわふわと頭のなかで情報が飛び交っているだけで、

その状況を心が何かしらの感情を感じているだけで、

理屈のもとにもなりそうな、何かが思い浮かんでいると思います。

論理や理屈未満、感情や思い以上の、まだ抽象的な何かです。

 

 

これをうまく記録できれば、それが自分なりの

読んでいる本との議論の記録になるんでしょうけれども。

とにもかくにも、読んで、思って、それを書いて、また読んで…を

繰り返すしかないんだろうなぁと思います。

 

それが自分の源泉のひとつになっていくのかも、と思いました。