思考の無謀な定式化

とても面白いブログを見つけました。

読書猿Classic;between / beyound readers

http://readingmonkey.blog45.fc2.com

 

読み書きそろばんを地で行くブログだと思います。

そこでは、読むこと書くこと計算することを実践しています。

そして、それらを支える、頭で考えるということも実践し、

それらの実践に伴う追求や研究も行っていると思います。

情報リテラシーの基本にして真髄を実践し、追求しています。

 

以前の自分は、頭脳的な能力にやたらと執着していました。

この記事がまさにそうです:考える私

頭さえ良ければ、と続けるわりには、そこに論理根拠もありません。

頭が良い、という言葉の意味さえ、しっかりと考えきれておらず、

言葉として述べたり、文章にまとめきれていないわけです。

 

ただ、頭の良さやそういう能力に飢えていました。

その定義や意味を見出せず、見出そうともしていません。

とにかく頭が良ければと思うだけで、結局は、

そこに到着するための行動や反省をしていませんでした。

 

 

では、どうすれば頭が良くなるのでしょうか。

そもそも、頭が良いとは、どういうことなのでしょうか。

どういうことをすれば、頭が良いとなるのでしょうか?

どういう結果を果たせば、頭が良いとなるのでしょうか?

 

…ここまで書いてきて、毎回こんなようなことを

書いている気がしてきました。

おそらく、考えるという行為自体には、ゴールが無いのだと

最近は身を持って感じるようになりました。

 

そのため、頭が良いという能力を、小刻みに分けていき、

まさに「分けて」いくことで、その内容や実態を

理解した(分かった)状態に近づけられたら、と思います。

よく言われるものでは、MECEとかグルーピングという方法です。

 

頭の良さを意味する能力を、バラバラに個別化して、具体的なものにします。

個別化してバラバラとなった、いくつかの能力を、それぞれに共通する

概念や見方をもとにまとめ直し、グループごとにまとめます。

例えば、論理力の中には、計算する能力や根拠を繋げる能力。

なんでこんな単純なことをしてこなかったのでしょうか…。

 

 

問題を発見することが出来たら、その問題に対する次のアプローチは、

問題を定式化する、というアプローチに入っていきます。

この問題は、何における問題なのか? 

この問題は、何を原因に発生した問題なのか?

人か? お金か? 物か? 情報か?

問題の定式化とは、事実に見出した問題を、

より具体的な事実として捉えていくアプローチといえます。

 

 

ということで、考えるということを、いろいろと定式化していこう、

とは思うのですが…これは果てしない作業になりそうです。

 

あんまり深追いせずにしておこうかと思っています…。