かく生きて

思考やアイデアが進まなくなったら、あえて放置して、 
あえて忘れて、いつか思い出す時までに発酵させる、 
という、かなり長期的な思考法や発案法があります。 

が、今回は発酵(腐敗)する前に、前回の日記を受けて、 
書き留めておこうと思ったことがあります。 
それは、自分の働き方や生き方のコンセプト。 
生きたり、働いたり、考えたり…そんな行動のサイクルを 
続けるのあたっての、超根本的な姿勢。 

大学で学び、その宗派に僭越ながら参加したのが 
「自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の頭で考えて 
 自分の口で、自分の言葉を喋る」 
という、大学の恩師の宗派です。微妙に言い回しが違う気がするけど 
大体は合ってるので細部は良しとします。 

でも、不安になったので、恩師とのメールを掘り返してみた。 
恩師はどんな言い回しをしてたのか、改めてみてみました。 
あの頃の自分の暴走ぶりをみるのが恐ろしかった… 
そう、結局、自分自身とは大して向きあえてないんです。 
とくに、だめだったころの自分とは、ね。 
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1. 自分の目で観, 
2. 自分の頭で考え, 
3. 自分の言葉で表現する 

という態度を身に付けたか,大いに期待するところです. 
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というのが恩師の言い方でした。 
ほかの自分の文章は、いま見返すと、必死すぎて 
こっ恥ずかしくて見れませんでした。 
もっと落ち着けよ、お前、といった感じでした。はぁぁ。 


ともかく、この宗派にそって、自分は生きているかなぁ、 
と、たまに、ふと、思い起こすことがあります。 
選択肢がたくさん出てくるような時、本当に自分自身で 
行動できてるかな? 考えられてるかな? 
そもそも、自分のハートで感じられているかな? 
自分だけの世界で、受け止められているかな? 

そして、世界の中の自分という人間は、どう行動するべきかな? 
という風に思ったりします。まあ、ここまで思い込んでいると 
だいたいは手が止まってるんですけどね。 
思索ばっかりで、行動にならんわけですが。 


この宗派のとおりに生きているかどうかさえ、 
正直、あやしいもんです。 
思い悩んで立ち止まっている、ということは、 
社会において、自分の立脚点が定まっていない、ということに 
なると思うからです。もちろん、社会は変動するし 
それにつれて立脚点も変動するんでしょうけれども。 

そう考えると、絶対的な自分像、なんてものは 
そもそも砂上の楼閣に過ぎないのでしょうか。 

思えば、今年の目標だかなんだかは、いろんな場面場面で、 
適切な行動を起こす、というものでした。 

皮肉にも、自分で自分に悩むこと自体、いつかの自分自身に 
否定とまではいきませんが、無駄だぞ、と言われているんだなぁと 
なんだか肩の力が抜けました… 


はぁあ。 
でも、ここまで考えられるなら、その方向性や正当性なんかは 
ともかくとして、いつかの自分にくらべれば、 
思考の次元や広がりが、増えたり広まったりしたなぁ、と思います。 

自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の頭で考えて、 
自分の言葉を喋って、自分の肌と心で感じて… 
というのが、まがりなりにも、できているんだなぁ、と思いました。 
それだけでも、いつかの自分からは、ずっと遠くの方まで 
これたのかもしれません。成長、できたのかもしれません。 


それならまあ、いっか。 
生き方に悩みつつも、少しでも整理して、コツみたいな 
もんを見出して、それでまた生きて、悩んで、整理して…

 

その時々で、抱えた問題に対して、自分なりに打破する方法を

自分なりに模索したり思索したりして、実践して、問題に

立ち向かえられたらなぁ、と思いました。

自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の頭で考えて、

自分の言葉を喋って、自分の肌と心で感じて、からね。

自分、ちょっとは伸びてるかもな。