考える私

 

なぜ私は考えるのでしょうか?

あなたや誰かではなく、私が考えるわけを、考えて書いてみました。

 

 

自分のために何かを書く。

そのために何かを読む。

これらのために考える。

 

まず、この動作を意識的にも無意識的にも実践すること。

そして、この動作の流れを、どうにかありのままに

記録して残しておきたい、と思います。

 

 

考える。目的を見定める。そのための行動を考える。

行動を実践する。行動を省みる。省みた行動をもとに

目的も省みる。目的と行動をまた考える…。

 

この思考スパイラルを絶やしたくないと思います。

そして、耐えていない証拠となる、記録が欲しい。

自分は、いつ、どこで、何を、何のために、どんなふうに、

考えたのか。そして、行動したのか。

 

でも、何のために、こうした思考と記録をし続けるのか?

なぜ、時間をかけてまで、ちょっと頭が痛くなるまで、

わざわざ記録を残してまで、しかも記録の方法も悩んで考えてまで、

思考と行動と記録を求めるのか?

 

 

なぜでしょう?

頭をもっと使えるようになりたいから、だと思います。

もっと優秀になりたいから、だと思います。

もっと優秀になって、社会に必要とされたくて、

少なくとも、不必要だとされたくなくて、考えるんだと思います。

 

切実な生存と生存のための過程なんだと思います。

あるいは、生存のための承認欲求でさえあるかもしれません。

社会に在る私、を見て取って欲しいのかもしれません。

 

 

そんなことを思った、今朝の思考と行動です。