辞める同期

職場を辞める同期がいます。

今月の月末まで出勤し、その後は有給を消化、

そして、4月中には退社してしまいます

上司には、退職届と有給申請書を提出したため、彼自身は、

以上の勤務日程をこなすのみとなっています。

 

 

彼が辞める理由は、前の職場での働き方がブラックだったことです。

会社の制度としては、週休2日制のはずが、前の職場では週休1日制にされた。

早出と残業が多く、しかも残業代の出ないサービス残業が多い。

すると、もらえる給料は低い。そして、積み重ねられるかどうか、応用出来るかどうかが

分からない仕事の内容と、そこでのキャリアが重く感じられます。

 

あれこれと問題がありますが、彼がもっとも嫌がったのは

週休1日制と拘束時間の長さでした。会社にあてる時間が多すぎて、

しかも、残業代が出ないため、自分の時間や生活が犠牲になりすぎている、

というわけです。

 

 

かくいう私自身も、同じような悩みを抱え、辞めようとしました。

しかも、辞めたいから辞めようとしました。

次の働き方を想定したり、次の働き方に向けて動いていたりは、していませんでした。

直属の上司にも、職場のトップにも、辞職の意思を伝えたところ、

甘くも辛くも、慰留の言葉を返され、辞職の意思を断念しました。

 

しかし、そんな私とは違い、彼は次の働き方を想定しています。

彼が次の働き方として選んだのは、公務員でした。

私には、公務員になる方法や、公務員として働くということが

どういうことなのか、正直さっぱり分かりません。

彼に対して、私から伝えられることは、具体的には何もなく、

しかも、重要なのは、彼の人生は彼が選び、進んでいくことだとして、

精神的な論としても、やはり、伝えられることはありませんでした。

 

 

働き方は、すなわち、生き方でもある、と思います。

人が生きるにあたって、いろんな活動をしていく中で、

その活動のひとつに、働くということがあります。

生きて働き、働いて生きて…その繰り返しを、人間はしていると思います。

 

映画の話で恐縮ですが、プラダを着た悪魔という映画があります。

その映画の内容は、ファッションという思想や業界や経済を牽引し、ひいては、

ファッションをゼロから創造していってしまう人間たちの、働き方や生き方を

描いた映画だと、私は思っています。

 

 

仕事が充実し、しかも成果を上げられるようになる頃には、

私生活は荒れ果てて、崩壊していく。そんな時期こそ、昇進の時期。

そんなセリフから、映画は一転。主人公に対して、

働き方と生き方の選択を迫る展開へと入っていきます。

 

主人公の上司となる、鬼の編集長は、主人公の比じゃないほどに

誰も彼も自分の人生や家族さえ犠牲にして、仕事をこなしています。

ファッション業界を牽引し、創造するという仕事に根付いた

生活や人生を送っているからです。仕事こそ人生なわけです。

 

映画のクライマックスは、編集長と主人公の

働き方と生き方のクライマックスでもあります。

 

まず、編集長の私生活は完全に崩壊。

夫との関係は悪化を止められず、離婚を申し込まれることに。

しかも、自らの華々しい仕事の発表会の前日に離婚が決定し、

仕事だけでなく、離婚さえも発表することが示唆されます。

このことはマスコミに騒ぎ立てられ、自らをはじめ、幼い双子の娘も、

世間から好奇の目で見られることにだろう、と、

編集長は涙ながらに語ります。

 

このシーンの編集長は、普段の華々しい服装やメイクをしておらず、

すっぴんであることが、その悲壮感を増していました。

彼女は鬼編集長という働き方をする、初老の弱々しい女性だからです。

 

これらの私生活の崩壊を裏側のクライマックスとして、

表側の働き方のクライマックスも凄まじい。

編集長は、そうまでして保つ、自らの仕事の意義と地位を

同雑誌の他国版のライバル編集長に奪われそうになります。

 

しかし、編集長はそんな動きを前々から捉えており、

同時に別件としてあった、自らの右腕である補佐役の部下の昇進を、

取り消します。その昇進は、そのライバル編集長の地位に当てたわけです。

 

 

編集長は、自らの働き方を守るべく、自らの私生活も家族も、

大事に育て、協力し合った右腕となる人材さえ、犠牲にしたわけです。

その手に残ったのは、ファッション業界を牽引し、創造する仕事。

それがために生きるのが、彼女の決めた生き方なのです。

 

 

それを助け続けたひとりに、主人公がいます。

主人公もまた、仕事のために私生活が荒れ放題の崩壊寸前。

家族も友人も、大事な彼氏も、恩なる先輩さえ、踏み台にしてきました。

(踏み台にせざるを得なかった、と表現するかどうかはともかく)

 

しかし、その犠牲のおかげで、ファッション業界を牽引し、

ファッションを創造さえする仕事のメインストリームに乗れたわけです。

彼女の働き方とキャリアは百花繚乱、けれど、私生活と生き方には

ペンペン草さえ残りそうにありません。

 

私生活が崩壊する生き方と、それがために仕事は充実するという働き方に

葛藤する彼女は、編集長の部下さえも犠牲にし、自らの働き方を尊重する

選択と行動に、とうとう嫌気を指し、編集長の前から姿を消しました。

 

 

映画の先はさて置いて。

仕事のために、そこまでは、できない。

仕事と私生活の選択を迫られる時が、私の同期にも来たわけです。

そして彼は、辞める事を選択しました。

 

 

もしかしたら、選択を迫られたというのは、違うのかもしれません。

私は選択を迫られたと感じ、辞めたい辞めたいと騒ぎつつも、

周囲や上司に慰留されました。これは、きっと、迫られたわけではなく、

自分から勝手に、選択肢に迫っただけなのかもしれない、と思っています。

 

 慰留された後、これらのことを考えるのを止めました。

考えるというより、ただ悩み、暴走していただけだと反省しています。

そして、働き方で生き方が犠牲になるのは、当然だとも思いました。

なぜなら、生き方の中に働き方があるからです。

 

働き方が、生き方からあらゆるものをマイナスし、あるいは

スポイルすることさえ、多々あると思います。

しかし、逆の場合もあります。働き方によって、生き方に

何かがプラスされたり、あるいは、強固にすることさえあるからです。

 

私が好きなものを好きなように買い、好きなように食べられるのは、

生き方をどこか犠牲にして、自由な意思のもとに就職し、そこで働いて、

自由に使えるお金を得たからです。

私には、私という人間を犠牲にして得た、お金があります。

そして、能力や生き方さえ、いまもなお、培えていると思います。

 

 

辞める同期に、かける言葉として、汚い言葉も綺麗な言葉も

用意したくありません。汚く罵ろうとも、上っ面な綺麗ごとも、

どちらも正しければ、どちらも正しくないと思うからです。

 

辞めゆく彼は、自分自身と重なってしまいます。

そんなのでいいのか、いや、そんなのでいいんじゃないか…

そんな気持ちが両ばさみとなっています。

 

彼にかける言葉は、いずれにせよ、絶対に無責任なものになります。

彼がどう生きて、どう働くかは、彼が決めて、実行することだからです。

正直に言えば、私は、彼にできるかぎりのことはしたい、と思いつつも

できるかぎり関わりたくないとも思うわけです。

彼は他人です。自分じゃない。自分であっても、そういう風に思ってしまいます。

 

 

彼が辞めた職場に、私は残って、働き続けます。

私が残った職場に、彼はきっと来ないと思います。

 

とにもかくにも、私は働くしかありません。辞めるまでは、です。

きっとそれは彼も同じです。働くしかありません。生きたければ、です。